夏です!
朝から青空がひろがって
蝉がないて
さあ~今日もガンガン晴れるぞ~!
みたいな景色。
夏本番ですね。
暑いのはつらいですけど
朝起きたときに
空を見て
ああ~気持ちよい!
1日が始まる!
というすがすがしい気持ちになります。
やっぱり「晴れ」が好きなんでしょうね。
山陰の人間ですから(笑)。
夏も冬も
気温さえちがえど
同じように
カーン!と晴れる大阪の気候に
ありがとう!!!
と、いつも思います。
いつまでも失敗を許さない社会
オリンピックの小山田さんという方
まぁわたしは全然知らんかったんですが
結局辞任されたそうで
いろいろ思うところ、
みんなそれぞれなんだろうなぁと思います。
小山田さんという方、
私はもちろん知らない人なので
なにがほんとで
なにが嘘かもわからないし
否定も肯定もしませんけど、
いじめを自慢するような
しかも社会的弱者にたいしてのいじめを
悪びれもせず話して
その内容が本当だとするならば
1人の人間の、その家族の
人生が変わるようなことをしたことと
その大きさがわからないのかという
ちまたで「サイコパス」とか言われているようなこと
そんな人がのうのうと
謝罪の気持ちもなく
その行為もなく
生き続けているということ
(それもどこまでどうほんとかわからないけど)
どうなのだろうと
子を持つ親として
自分だったら、
自分の子だったら、
と思うと
思うところはいろいろあります。
当事者だったとしたら
一生許せん!
殺してしまいたい!
と思うかもしれません。
でも一方で
20年以上も前の
まだ成人していないころの
過ちを
それが人格を否定するほどのものだったとしても
それをいつまでもいつまでも
人生をふさぐほどにたたきつづける
この社会にも
思うところはあります。
これじゃあ人は
更生もできないし
更生する機会すら与えられず
むしろその機会も気持ちも
奪われてしまうんじゃないかと。
小山田さんという方が
どういう方かわからないし
どんな後悔を感じているかも
全く感じていないかも
なにもわからないけど
一般論として思います。
DaiGoさんが
この件について
心理学的に考察している動画もみて
人間には、
自分と異質のものを排除するという
つまり、いじめを行うという
そういう習性というか本能というか
環境要因以外にもそういうものがあるのだという話に
納得したりもしました。
我が子だっていろいろあった
思い返すと、
我が子だっていろいろありました。
小学校のとき、
担任の先生から差別的な扱いを受けたことがありました。
やんちゃが過ぎることが多かった
元気すぎるムスコですが
いつもは泣くことなどない彼が
ある日帰ってきて
大泣きして
先生の言動によって
ひどく傷ついたことを
私に話したことがありました。
それまで我慢していたようで
いろいろ聞いてみると
それまでもいろいろあったみたいで
びっくりして
夫と一緒に学校に行って
担任や校長先生とお話しして
親としてできる限りの対処はしたつもりです。
それも試行錯誤やし
正解ってないから
よかったのか悪かったのかもわからないけれど。
友達にいじめられたことは
私が聞くかぎりではなかったけれど
でもそういった
我が子がつらい思いをする経験をするということは
親としてはかなりつらいものがあって
それも、親だからこそ
「自分の子が悪いのに」文句を言ってる「モンスター」
になってはいないかと
そんなこともずいぶん意識しながら
いや、客観的にみても
そりゃあかんやろ、
みたいなことにはやっぱり
泣き寝入りはあかんと
何度も何度も学校に行ったのを覚えています。
けど、そんなムスコも、
人を傷つけたこともありました。
同級生に心無いことばをかけて
傷つけてしまったり
担任から電話があってそれを知って
こんこんとムスコに話をしたこともありました。
嫌いな子を無視していたことも
あったみたいだったし
口うるさい学童の先生に
かなりひどい反抗をしたり
こんなに優しい我が子が
やんちゃをすることはあっても
他人を傷つけることなどないと
どこかで思っていたから
とてもびっくりしたし
悩んだし
対処の方法もずいぶん考えました。
対処といっても結局は
きちんと話をする、
ということしかできなかったけれど。
でもほんと、今思い返すと
我が子も
いじめる要素も
いじめられる要素もあって
特に小学生のころなどは
人間性むき出しの時期でもあって
子どもは社会の中で
どうかかわっていくのか
どう生きていくのか
どういう感情がわいて出てくるのか
それを学び
人に対して
なにかしら嫌な感情をもって
それを受けても
そしてそれを自分が外に出しても
どっちもプラスの感情が残らず
いやな気持ちが残るだけなのだ
ということも学んでいくように思います。
いじめている側も
決して爽快感などなく
自分にとっても嫌な思い出であることは
一般的には共通なんじゃないかなと思うんですね~
もしそれを
武勇伝のように語っていたとしても
そこに潜む自分の闇
みたいなものに向き合いざるを得ない気もします。
人間はいろんな要素を持っている
要は
人間はいろんな要素をもっていて
複雑怪奇な生き物であり
人は変わらない
のもある意味真実だし
人は変われる
もまた真実だと思うんですね。
そもそも、
残念ながらきれいな気持ちだけではなく
黒い心も誰もが持ち合わせていて
でもそこには、
人間は成長できるという
その救いがあるような気がしているので
なにかしらそこは
性善説で泣きを見ることがあっても
あたたかく見守れる社会も
あってもいいんじゃないかと
そんなことを思います。
オリンピック騒動の彼がどうのということだけじゃなく
「たたく」が普通の世界になってしまっている
今の世間に対して
思うところがあるって話です。
人を傷つけることは許されないことだと思うけれど
「誰が」許すん?
「誰が」許さんの?
って話です。
人を「裁く」権利が、人にはあるんだろうかって。
失敗も黒い気持ちもない人間なんて
この世にいないはずですからね。
ひとは成長する。
それを信じられる余地を残しておきたいなって
そんなことを思う今日このごろです。
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