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家族は親しい他人

家族は親しい他人 こども・家族

9月も10月も
祝日がありますね!
ばんざーい!

でも、休みがあると
もっと休みたくなる不思議よ(笑)。

家族の時間

ムスコもムスメも出ていって
家族の時間がめっきり減った我が家。
夫は夫で
むちゃくちゃ出張が多くなって
(ありがとうダンナの会社(笑))
逆に家に帰ってくるとき
うっ!
ってなる(笑)。
もうまじ、
朝日新聞で特集してた
熟年離婚も考慮・・( 一一)

老後の生活がな~
1人分の年金でな~
どうだろう・・
みたいな
もはや計算でしかない( 一一)
ほんとに自分がいやになりますが( 一一)

ま、それはともかく。
家族時間はめっきり減りました。

でも、たまに
訪ねてきてくれる親戚がいたりして
うれしいな~
と思います。

そうだ~!
おじいちゃんおばあちゃん父
が亡くなってから
とんと親戚に会わなくなってたことを思いだして
ああ~
会えるひとには会っておかないと!
なんて言ってるのに
従妹とか全然会ってなかったやん!
と思った次第です。
東京にもたくさんいてるのに
ムスメのとこに行っても
友達に会うくらいしか思いつかんかったし( 一一)

そーだ、
このつながりは大事にしときたいな、
折をみて訪ねていこう、
と思いました。

親族だから難しいこともある

そんなふうに思ったりする今日このごろ、
親族だからこそ
親だから
子どもだから
かえって親子関係がこじれること
親戚関係がこじれることもありますよね。

我が家もご多分に漏れず
小さいころからそういうのは
むっちゃくちゃありました。
嫁姑だったり~
兄弟関係だったり~
まぁいろいろありますわな。

子ども心に
母の心の葛藤を
気の毒に感じたり
腹立たしく感じたり
いろいろありましたけど

こうやって自分が60歳近くなって
母のまわりの
わずらわしかった人間関係のひとたち
みんな
亡くなったやん( 一一)(笑)
なんて思ったりします。

そう、誰もが死ぬことだけは
確定やねんからね。

母にいつもつらくあたっていた祖母が亡くなったときより
母にまた同じようにつらくあたっていた叔母が亡くなったときに
ああ・・・
ひとって亡くなるんだ・・
あの諍いごとはなんだったんだ・・
と、なんだかとっても不思議に感じた記憶があります。

祖母は弱っていく姿を見ていたから
あんだけ強く出てたけど、
弱ったらもう面倒みてもらうしかないやんか
と思って見てたんですが
叔母は弱っていく姿を見なかったから余計かな。

わたくしごとではないけれど
(私は叔母とは普通にやりとりしていたし)
母はあそこまで「許せない!」って気持ちを
持ち続けることはなかったんちゃうか
どうせ亡くなるねんし( 一一)どっちも( 一一)
・・・とふと思ったりしたんですが

でもやっぱり
生きてると
いつ死ぬかなんてわからんから

やっぱりあれこれ、
もめ事は起こるし
縁を切ります!
的なことも、なくはない。

はたからみていると
ただ、ほんとに
価値観が違うだけで
お互いに線引きして距離をおいて
「相手と自分は違う」
って両方が思えたら
それで解決しそうやねんけども

でもその
「距離をおく」
が親類の場合は難しかったりするんですね。

ほんと、親子、親戚、
血のつながりは
それはそれで
難しいこともあるよなぁ
と思います。

私自身は
あんまりそんなことないな
なんていま、思いながら書いてましたけど
いやいや私こそあったわ( 一一)

去年、そして2~3年前に亡くなった
夫の両親と
いろいろあって
全然会ってなかったな~
ってね。
思い出しました。

生きてらっしゃる間は
あまりひとに話したことなかったけど
それが私の心の闇でもあったかもしれません。

もちろん、
それなりのことがあったからではあるけれど
もちろんそれは
私の価値観での話であって
私も、距離をおいて
相手の価値観を想像して
つきあうことができていれば
ちがったのかもしれません。
てか、ちがったでしょうね。

でも、結局のところ、
頭でそうはわかっていても
こころはなかなか
そちらに向かないし
言葉で説明できないこともいっぱいあって
いやむしろそっちのほうが多いかも。

なので前言撤回(笑)。
価値観の理解や
距離の取り方で
解決しそうなこと
・・でもなかったりしますね( 一一)

どうしようもないこともある

父の最期を看取っていただいた
ホスピスの医師は
執筆された書籍や講演でよくおっしゃっていました。
「家族は親しい他人である」という言葉のこと。

死に直面しているホスピスでは
いろんな人間模様が見えて
家族の形もそれぞれ。

断絶していた家族が
死が近いことにより
劇的にドラマのごとく
また近くに戻ってくることもあるし

そして、死が近くたって
断絶はそのままで
距離が埋まらないこともある。

それが正しくないわけではない。

言い切れる正しさなんて臨床にはなく
臨床は反対言葉の群生地である。
真実は矛盾の中にこそある。

これをね~高校のときに聞いて
へぇ~・・・・・
目からうろこ・・
と思ったもんですが

年齢を経ると
なんとなく
その意味がすこしわかるような気がしたりもします。

人間って
全部割り切れるものばかりではないし
それこそ
「正しさ」は人それぞれの価値観でしかなく
他人にとって、自分の正しさがあてはまるわけもない。

ならば
自分の心にしたがうことは
大事なことだったりするんじゃないかってね。
そう、「なにが正しい」はたぶん正解ないから。

夫のご両親が亡くなるまで
その距離を縮められなかったことに
罪悪感がありつつも
仕方なかったんだという思いもあり
でも
やっぱり後悔はないっていう。

周りを見ても
私自身の親族の中でもいろいろあるけれど
断絶してるとこはそれはそれで
仕方ないのもあるよな~
って思って見ています。

人間は生きている限り
相容れないものは絶対にあると思うし
それが正しいとも間違いとも言えないものも
いっぱいあるから。

ひとは必ず亡くなるし
亡くなったときに
こうしておけばよかった
は絶対あるし
逆に
これでよかった
も絶対ある。
そんなふうに思います。

ただ、自分が大事にしているものは
なくさないでいたいし
この世で出会えた大事さは
忘れないでいたいなと
それは思いますけどね。

何を言いたいんかわからんようになってきた(笑)。

いずれにしても、
血のつながりというものは
ありがたいものであり
やっかいなものであるという
これもまた
反対言葉の群生とも言えるのかもしれません。
やっぱり
臨床をみているひとの言葉は
重く、真実に近い気がします。

ああ、親戚にもだけど
この先生にも会いたくなったな。
先日、また講演されていたので行きたかったけど
ド平日やったからな(笑)。
会える人には会っとかな!
の精神で、次こそは、
と思ってます。

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